DrBulucaniloの日記

独身女臨床獣医の読書感想文

『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』

 

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

 

 

人間には生きる道筋を示してくれる存在が必要だよね。対象は人でも何でもいいと思う。その存在に出会えた人々は幸福であるけど、それを自覚できているわけではない。気づいていなくてもあの存在が自分の人生の方向を決めたのだと思う時がふとした瞬間にくる。私にとってこの本は間違いなく人生における道しるべの一つ。

 

詩人ライナァ・マリア・リルケが文筆家を志す青年と、戦時下の騒乱の世の中でシングルマザーとして生きた女性へ宛てた手紙をまとめた書簡集。

小説や詩というものは基本的に不特定多数の人にみられるという前提で書かれているけれど、手紙は違う。手紙という個人から個人へ宛てた超私的な文からは彼の思想がより直接的に描かれているし、迷う人への暖かい眼差しが伝わってくる。なんかこう、色気がある。字が下手だからちょっと恥ずかしいけど、私も文通している人がいる。東欧の小児科の女医さん。年上の彼女からの手紙は、いつもシンプルな封筒に入っている。封を開けると、裏側は彩り豊かなイラストが描かれている。蝶や花や蔦の。自分の生活基盤とまったく違う場所で全く異なる生き方をしている人が、心をこめて手紙を書いて美しい封筒を選んでくれたのかと思うとうれしくなる。一生会うことはないと思うけど、少し救われるんだな。私が遠くの彼女の苦難の生活を想う時と同じように、彼女が少しでも私のことを気にかけている瞬間があると思うとちょっと世の中が好きになる。

 

脱線したけど、直に心が触れ合う手紙は他の人に宛てられたものであっても、後世の人々の内面を揺るがす。

1902年から1908年までのやりとり。

「誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません。誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかを調べてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かねばならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。

もしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かねばならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることが出来るならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立てて下さい。

あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません。あなたはその運命を自分にお引受けなさい、そしてそれを、その重荷とその偉大さとをになって下さい。

 

一つの世界があなたを包み込むことでしょう、一つの世界の幸福と富と不可解な偉大さとが。

 

愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。人間から人間への究極の愛、これこそ私たちに課せられた最も困難なものであり、窮極のものであり、最後の試練。愛することは個々の人間にとって、自ら成熟すること、自らの内部で何ものかになること、相手のために自ら世界となることへの崇高な機因であり、それぞれの人間に対する一つの大きな法外な要求であり、彼を選び取り広大なものへと招くある物です。

 

『サロメ』 恋する乙女のアクセルべた踏み

 

サロメ (岩波文庫)

サロメ (岩波文庫)

 

 

女として生きることは大変だ。仕事もこなさなきゃいけないし、妻なり母なり女としての性も全うしなきゃいけない。

ちょっと登場人物の関係は込み入っている。主人公はとあるユダヤの国の王女。母エロディアスは、夫の弟のエロドの妻となる。エロドはエロディアスに懸想し兄王を殺害し国の長となる。そんなエロディアスも若く美しい継子であるサロメに尋常ならぬ想いを持つ。

そんなときに預言者ヨカナーンが現れ、母エロディアス姦通の罪と、サロメをその子として糾弾する。

 

ある月の美しい夜、サロメはヨカナーンを見る。この物語では、「見る」ということが危険な力を持つ行為として描かれる。

 

サロメ「あそこはいや。とても我慢できない。なぜ王はあたしを見てばかりいるのだらう…妙なこと、母上の夫とあらうに、あんな目であたしを見るなんて。あたしには解らない、どういふ意味なのか…いゝえ、本当は解っている」

「あたしは会つてみたい、あの不思議な預言者に…あたしはあの男をもつと近くでみなければならない。」

 

カナーンと会うことを嘱望するサロメに、護衛のシリア人(サロメに恋してる)は二人を引き合わせることを拒否するが、最後はこの言葉で落ちる。

サロメモスリンのヴェイルの奥から、お前を見てあげるのだよ、ナラボス…あたしをごらん、あたしを。」

 

カナーン「この女は何ものだ、おれを見てゐるのは?見てはならぬ。…知りたいとも思わぬ。連れていけ。この女ではない。おれの話したいのは。」

 エロド「…虫が知らせる、なにか禍が起こらうとしてゐるのだ…篝を消せ。おれは何も見たくないのだ。」

 

サロメ「あゝ!あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ。お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい?これは?…いゝえ、さうでなうて、たぶんそれは恋の味なのだよ。」

 

サロメはヨカナーンの首を斬らせたあと、エロディアスの兵に刺殺される。粘着メンヘラが一方的に片思い&玉砕しただけじゃねーかと思われそうですが、彼女はとても生きづらかったに違いない。

実の父は殺され母はその犯人の妻になってしまった。そんな継父からは性的な目でみられる。どこにも行けず息苦しかっただろう彼女にとって、ヨカナーンを見つけた時の衝撃は大きかったことでしょう。遠くの国から来た男、救世主が来ると説く男はさぞ魅力的だったのでは。

 

相手の気持ち、生死を問わず「あの男が欲しい」って感情を1μmlくらい奥底に隠し持っている女のひとは結構多い。女の情念の深さってやつか。残念ながらわたしはまだそこまで思ったことないけれど。

 

エロド「サロメ、おれに踊りを見せてくれ。…踊つてくれたら、なんなりとほしいものをつかはさう。」

サロメ本当に、ほしいものはなんでもと、王さま?…ヨカナーンの首を。

サロメ「あゝ、ヨカナーン、ヨカナーン、お前ひとりなのだよ、あたしが恋した男は。あゝ、どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカナーン?…一目でいゝ、あたしを見てくれさへしたら、きつといとしう思うてくれたらうに。…恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。」

『夜間飛行』 闘うように生きる、すべての人々へ

 

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

 

 

闘うように生きるすべての人々への賛辞。

 

ストーリーは郵便を届けるために夜間飛行を担うパイロットが暴風雨に遭い、墜落するまでの数時間をパイロット自身、同僚、妻、そして上司の精神的な葛藤と厳しく美しい自然の描写が秀逸。夜間飛行を続けるパイロットとの無線が途絶えたとき、上司は苦悩する。ある人間の命を賭してまで遂行すべき仕事に何の意味があるのか?と。

夜が明けて絶望が色濃く立ち込めてきても、それでも彼は業務を止めず、パイロットと飛行機を空に送り続ける。

 

翻って、わたしもなぜ今の仕事をしているのだろうと考える。犬猫にも本気で攻撃されて蜂窩織炎にもなったし、馬牛だと本当に命の危険も伴うし、結婚適齢期なのに、出会いもなくひたすら動物を診て。。。「そのちっぽけな名もなき命を救おうとすることに何の意味が?いったい何の価値が??」そう言われればそうかもしれない。でもその「たかが小さな命」に何かに突き動かされるように心血を注ぎこめるか、が臨床医というものなんでしょう。

 私たちを突き動かすものの一端が本文と、アンドレ・ジッドによる序文のなかにあります。

 

『生きる者は、生きるためにすべてを押しのけ、生きるために自分の仕組みを作り出す。それは誰にも止められない。…

 

ひとの生に価値がないとしてみよう、われわれはいつも、それ以上に価値の高いなにかがあるようにふるまっているのだから…。だが、その何かとは何なのか?…おそらくは救うべき別のなにか、より永らえる何かが存在するのだ。

おそらくは人間のその領域に属するものを救うために、リヴィエールは働いているのではないか。』

 

序文アンドレ・ジッド

ひとは自己のうちに最終的な目的を見出すことはない。何であるかがわからないままに従い、犠牲を払うこと、それが人を支配するのだ、それが生きることだ。

「わたしは人間を愛しているのではない。人間をむさぼり尽くすものを愛しているのだ。」』

 

 

『人間の土地』 人生に意味があるのではなく、我々が人生に意味を与える

 

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

 

 

こんばんは。生後1週間くらいの子猫たちの授乳を2時間半おきにしています。明日も仕事だっ!
生きもの相手の仕事って、こちらの都合はまってくれないもんですね。一生懸命動物が頑張っても、我々が頑張っても、死ぬときは死ぬし。どんなにやっても私たちのやっていることは不確実性を伴う。きっとこーゆー「報われなさ」があるから臨床離れる人が多いんでしょう。

星の王子さまで有名な飛行士・小説家であるサン=テグジュペリの『人間の土地』は、大変な思いをして日々生き続けている全ての人への「ではなぜ続けるの?」という問いに対する解答のひとつの極み。

以下引用
『ぼくは、自分の職業の中で幸福だ…ぼくには、何の後悔もない。ぼくは賭けた。ぼくは負けた。これはぼくの職業の当然の秩序だ。…問題はけっして危険な生き方をすることにあるのではない。…危険ではないのだ、ぼくが愛しているものは。ぼくは知っている、自分が何を愛しているか。それは生命だ。…

…たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる。そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる。なぜかというに、生命が意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。

精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。』引用終わり

我々を人間たらしむるものは一体なにか?それは我々がもっとも時間と精神を注ぐもの(仕事であったり家庭であったり)を通じて、立ち現れるものだということです。自分おかれている立場を通じて世界に何らかの価値を生み出すべしと。価値という言葉は語弊があるけど、それ以外に言い当てる言葉が見つからなかった。

人生に対する強い肯定を感じます。

 

 

『若きウェルテルの悩み』ゲーテ

 

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)

 

 

片思い男の古典的バイブル。私は女だけど、片思いしたことだってあるし思い焦がれたけどダメだったこともたくさんある。そんな時に女でも共感したい本のひとつ。

感性と教養豊かな主人公は、母亡きあとの家をまもる清純な乙女ロッテに恋する。でも横には幼馴染でよい就職先も決まってる女からみたら超優良物件男がひっついてる。二人の結婚に耐えかねて遠くの街で働き出すが、やっぱりなじめず戻り、苦悩の末自殺するという顛末。ウェルテルが友人ウィルヘルムへの書簡の中で思いをつづる形式。着目すべきは内的感情の変化。始めは町の美しさや芸術とはなんぞというさわやかでどこか現実的ではない内容の手紙なのが、ロッテへの思慕の念とアルベルトへの友情と嫉妬の入り混じった感情がはいってきてからはさあ大変。

前半抜粋「ああ、かくもゆたかにかくもあつくわが心の中に生きているものを、描き出すことができたら!-友よ、私はこれによって滅ぶ。私はこの壮麗な現象の力に圧倒されてくずれおちる。-人間の中には、自己を拡充してさらに新しい発見をし、さらに遠くへさまよい出ようとする欲望がある。それだのにまだ、制約に服し、習慣の気道を辿って、右にも左にも目を放つまいとする内的な衝動もある。」

私はこの前半パートの芸術論とか、人間の性質についての考察のあたりが好き。

「疑いもなく、人間をこの世でもっともなくてはならないものにするのは、愛だ。-友よ、私は常に現状の変化を渇望せずにはいられないのだが、これはことによったら内的な不快な焦燥感なので、どこに行っても私を追跡してくるのではなかろうか?ーなんでも優良な血統の馬があって、駆り立てられて激しくて苦しくなると、本能的に自分の血管を咬み破って呼吸を楽にする、という話を聞いたことがある。ときどき私も自分の血管を開きたい。そして永遠の自由をかちえたい。-おお、愛、よろこび、熱、悦楽、これらのものはわれわれから与えなければ、人からは与えられることがない。」

 

この焦燥感、渇望。読んでいると私も胸が苦しくなる。ウェルテルのロッテへの渇望は、読者の追体験となって伝えられる。それはかつて得ることのできなかった愛のできそこないの思い出に対してかもしれないし、あと一歩まで近づきながら叶えられなかった夢に対する渇きなのかもしれない。

 

『グレートギャッツビー』とか、『若きウェルテルの悩み』とか、聖女みたな悪女みたい女を手に入れたくて男たちはやきもきしてるんだろうが、女だって自分を一途に見つめてくれる男が欲しいし夢みたい。女視点で見るとロッテは最強のリアリスト。感性の会うウェルテルに惹かれつつ堅実なアルベルトを選ぶ、自覚はしていない所がさらに女としての鋭さを強調する。ものすごい野心家な女だ。男の野心と女の野心は違うと思う。

 

 

ちなみに現役獣医師の立場から言うと、どんなに高い馬を掛け合わせて生まれた馬でも、自分の血管を食い破ったりはしない。

『知性とは何か』佐藤優

 

知性とは何か(祥伝社新書)

知性とは何か(祥伝社新書)

 

 

私たちの世の中に対する見方は自分の脳みそで考えて居ると思っても、必ず他者が意図的に発している情報の影響を受けている。政治や国際情勢の報道にしろ識者の意見にしろ、情報を発信している当事者の自覚の有無を問わずある事実を情報として発信するときは何らかのバイアスが入ると思う。そしてぼうっとテレビや新聞を読んでいるだけでは他人の意見がそのまま自分の意見として刷り込まれてしまいがち。かくいう自分もある出来事に対して自分なりに解釈・反芻し意見を持つことがなかった。

考えるトレーニング、そして無数の「情報」のなかで何が事実で何が発信者の意見であるか判別できるようになるきっかけにあればと購入した。

この本では、現在日本では「反知性主義」が蔓延しており今後これが加速していれば大きな過ちに達してしまう可能性があり、これを理解・回避するために「知性」を身に付けることが必要だと説いている。具体的に「反知性主義」とは何なのか、過去の歴史的な出来事や国内で現在進行形の出来事を絡めわかりやすく書かれている。さらに、どのようにすれば知性を身に付けることができるのか、事実の捉え方や具体的な読書術も示されている。

特に印象的だったのは下記の文章だ。

反知性主義とは、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」である。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じ籠る姿勢だ。ーこういう反知性主義者が問題を引き起こすのは、その物語を使うものがときに「他者へ何らかの行動を強要する」からだ。-物事を理解するときに二つのアプローチがある。「現象論」と「存在論」だ。現象論とは、われわれの目の前に見える出来事をとらえていくというアプローチだ。存在論とは、目に見える現象の背後にある、目には見えないが確実に存在する事柄をとらえるためのアプローチだ。-愛も信頼も友情も確実に存在している。-目には見えないが、確実に存在する人間の心の動きを、客観性、実証性、合理性よりも重視し、お互いの心を理解することができる共同体が形成されるならば、そこでは他社の心を無視してて自分が欲するように世界を理解するという態度が取れなくなるので、反知性主義が付け入る隙もなくなる。」

 

この「存在論」、実際には目に見えない信頼や愛などといったものを理解するためには自己が確立されていなければできない。自分の欲しいものは何なのか、望みは何なのかがはっきり自覚できていなければ信じることはできない。私にはまだトレーニングが必要だ。

『経済ってそういうことだったのか会議』佐藤雅彦 竹中平蔵著 感想

 

経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)
 

 

私は現在理系専門職に就いて2年目になります。6年制の学部だった上に田舎の大学だったため、世の中のことに疎いまま社会に出てしまいました。「このままではまずい、一般常識がない」と書店で手に取ったのがこの本です。

2002年出版ということもあり、トピックはひと昔ほど前の情報になりますが、「経済とは?」という根源的な問いや「株・為替・税金・そもそも資本主義社会とは何か?」など基本的な事柄が教養豊かな2名の対談形式でわかりやすく書いてあるので楽しく読むことが出来ました。とてもわかりやすいのですが、竹中氏の個人的な考えも織り交ぜられているため私のような経済一般常識を備えていない初学者は誘導されてしまうかもしれません。しかし、私はなるほどな~と思うところが多かったです。

 

印象に残った文をいくつか抜粋します。

「我々が、個人としてだけでなく、それを発端とする学問がオイコノミクス、つまり経済学の始まりだったのだ。-やぱり経済は信用なんです。-ただ一つ言えることは、お金を稼ぐということは、この社会の中で価値を生み出しているということです。だから、価値を生み出している人を罰するつもりがなのであれば、(税金について)とり方にはあまり差をつけないほうがいいですよね。ーまったく新しいことをやることは、そもそも実績も制度もないからいつも、まわりから否定されますよね。その分、個人が背負うリスクは大きいですが、まったく新しいことは、そもそものルールを作れるくらい自由ですね。その創造の喜びこそ、真の自由だとおもいます」

 

日々自分の行っている仕事を、巡り巡って社会全体にとっての何らかの「価値あるもの」にしなければいけないですね。日々の生活の糧のため、(いつかは)他の誰かのために、そして何より自分や大切な人物のためにがんばんなきゃなと前向きになれます。近年の込み入った他国と日本経済と情勢を理解することは一筋縄ではいきません。これから情勢を読み取っていくために、折あるごとに読み返したい本です。